植木です。
メールを転送します。

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はじめまして。。。 花ちゃんです。
私のこと、彼のことを書きますので、ゆっくりと最後までお読み下さい。
長文ですが、飛ばし読みせず、時間のある時に読んでいただきたいと思います。



私は、大阪で生まれ、地元の高校を卒業して看護婦になるために、奈良県橿原市にある奈良県立医科大学付属看護専門学校に入学しました。
看護婦になりたいと思ったのは、困っている人を助け、社会に少しでも役に立ちたいと思ったからです。

授業のグループで一緒になったのが4人で、皆さんと親しくなり、友達は私のことを「花ちゃん」と呼んでくれました。
名字が、「立花」だったので花ちゃんでした。

ある日、その4人の中の一人から「高校の時の男友だちと名古屋で会うので一緒に・・・」と誘われ、特に用事もない日だったので、奈良から近鉄特急に乗り名古屋まで二人で行ったのでした。

これが運命の日だったのです。
彼との出会いでした。

友達からは、事前に性格など聞かされていましたが、想像以上に優しそうな人でした。
楽しい一日が終わり、その翌日に彼からの電話でした。友達も看護学校の寮生活をしていましたから、私の電話番号を教えなくても架かってきたのでした。
勿論、期待していたので喜んで受話器を持ったのを今でも鮮明に覚えています。

それが遠距離恋愛のスタートで、当時、彼は岐阜県に住んでいましたので、一ヶ月から二ヶ月に一日だけしか会えず、又、仕事で青森に半年、埼玉に三ヶ月などの出張があり、遠距離から超遠距離に変わることもありました。
しかし彼は、三日に一度、電話か手紙をくれました。

最近、ふと思ったのですが、彼が書いているネット上のブログは、昔、私への手紙を書くことが練習になったのではないかと思っている今日この頃です。

そして、頻繁に電話や手紙が寮に届いたので、皆が知る“彼”になっていたのですが、一つだけ心配がありました。
最初に名古屋で紹介してくれた友達と彼との関係でした。
そんな心配は、すぐに吹っ飛び、彼の交友関係には驚きました。
彼は、高校の時、一学年10クラスそれも女生徒だけ、顔と名前、出身中学を縦軸、横軸として記憶して、更に町内別も覚えようとしていたとか。
そのため、彼の友達は、圧倒的に女性が多かったのです。
だから、紹介してくれた友達も、多くいる女友達の一人だったのでした。

看護学校を卒業する時に、彼から話しがあれば、その時点で彼のもとに行く覚悟はありましたが、結果的に実家から通勤できる大阪の病院に勤めました。
その後も大阪と岐阜の遠距離は続きました。

そして、運命の出会い、遠距離恋愛から三年のある日。プロポーズの言葉。。。そして、私の親にも挨拶に来てくれました。

転職を考えはじめていた彼に「全国を転々とする職でも、私はついていきますから、好きな仕事をしてほしい。今の仕事を続けても・・」と言いました。
それは、転勤が多くて実家の大阪近くには職場がなく、優しい人なので自分の仕事より、私のことを優先しているのではないかと、思ったからです。
結果的に、彼は転職して京都の大企業に就職が決まったのですが、彼のご両親から結婚について大反対。私との結婚の反対ではなく、結婚は転職後に仕事が落ち着いてからと。

3月7日に結婚式。一週間の新婚旅行。24日に彼は退職。31日に私が退職。4月1日彼は入社式。その間に双方の引越しでした。新居は滋賀県草津市の2DKのアパート。

今から思えば、ご両親の言われるのが正しかったと思いますが、彼は一歩も引かず強引に決めてしまったのです。
彼は、「大変な方が新しい会社、職場で頑張ることができるからとご両親に話されていました」

2DKのアパートは、1階、2階にそれぞれ2軒の計4軒。アパートの名前はみどり荘。
偶然なのですが、彼が住んでいた岐阜のアパートも同じみどり荘でした。
当時、彼は緑色が好きで車はマツダのファミリアの緑色。部屋のカーテン、冷蔵庫など緑色にしようと二人で買いに行きました。

偶然と言えばもう一つ、彼にはお兄さんがおられますが、お兄さんの車もマツダのファミリアの緑色でした。別々に買ったのに同じ車と色とは、さすが兄弟と思いました。

そうそう、彼にとって嫌な思い出になっていると思いますが、新婚旅行の時の出来事でした。
新婚旅行は、沖縄に行ったのですが、彼の嫌いな蛇がたくさんいました。
ある蛇のショーを見ていると、「新婚さん、そこの新婚さんステージまで」と言われ、ステージに上がったのです。
彼はものすごく嫌がっていましたが、私が強引に引っ張ったのです。

彼と私は、ペアルックで緑色の服を着ていました。その服と同じ色の、ニシキヘビを二人の首に巻かれたのです。

その日から、彼は蛇を本で見ることも、テレビで見ることも出来ず、更にはオモチャの蛇まで駄目になってしまいました。
彼に悪いことをしたと今でも反省しています。
(彼は、男の意地でステージに上がったのかもしれませんね)

「大変な方が新しい会社、職場で頑張ることができるから」と言っていた言葉が、別の意味で本当になりました。
結婚式を目の前にした10日前、彼の実家が火事で全焼になってしまいました。
失火で、彼の実家に届いたお祝いが全て灰になったのです。

ここでも、彼は一歩も引かず結婚式を行うことを決めました。
結婚式の費用は、ご両親に頼らず彼の貯金からでした。
自分たちの失火で、息子の結婚式が延期にならず、ご両親は喜んでおられました。

後からお母さんに聞いたのですが、彼は小さい頃から、負けん気が強かったそうです。
そんな所や優しさに私は引かれたのかもしれません。

仕事も家庭も全てゼロからのスタートでしたが、喧嘩もゼロだったと思います。
しかし、結婚して直ぐに私は三度、彼の前で泣いてしまいました。

最初の涙は、慣れない仕事で苦労していると思い、朝から献立を考え、夕食作りには頑張っていました。しかし、彼はそのご飯をガサガサと食べてしまいました。これが美味しいとか、味つけが悪いとかの会話がなかったからです。
男性、特に体育会系の男性って、ご飯をガサガサと食べる人は多いことを後から知りました。

二度目の涙は、友達と久しぶりに会って帰宅が遅れたら、彼の機嫌が悪かったのです。
私の二度の涙は、優しい彼にとっては辛かったみたいです。
その後は、彼なりに反省したようで料理も外出などにも理解があり、それ以降は泣くこともなく、喧嘩することも一度もありませんでした。

三度目は、Yシャツのポケットに入っていた名刺入れに気がつかず、そのまま洗ってしまい、名刺入れと名刺を駄目にしてしまいました。
彼の帰宅後、顔を見ると涙がこぼれ落ちました。
訳を話すと「買ったらいいし、名刺は相手に話してもらったらいい」と優しい言葉が返ってきました。
今から思えば、どの涙もママゴト遊びのようだったかもしれませんが、若い二人にとっては忘れられない出来事でした。


この頃から、彼にはすごい能力があることに気がつきました。
ある日の朝、彼が起きると「嫌な夢を見た。○○交差点から、□□ビルの屋上が燃えているのを見た。。。」実際にその場にいた様な口調で真剣に話すのです。

驚きは、数日後。二人で外出後、草津駅からみどり荘に帰る途中に消防車のサイレンが鳴っていました。
少し歩くと、ビルの屋上が燃えていました。それも、彼が数日前の朝に話したビルだったのです。彼が夢で見た交差点ではなく違う角度からでしたが、彼と私は小走りでみどり荘に帰りました。

彼に聞くと、過去にも正夢的なことは何度があったらしいのです。
こんなことを皆さんに話しても、信じてもらえないかもしれませんが、その火事以降も色々なことを予見していました。

ある日、彼のお母さんにこのことを話しました。すると驚きの言葉が返ってきました。
お母さんも、そのお母さん(彼からするとお婆さん)も霊感があり、村の人たちが相談などで家に来ていたとのこと。そして、兄弟がいても、一世代、一人だけとのこと。
予見があたることは、彼は嫌がっていましたが、私ではどうすることも出来ませんでした。
そう言えば、最近この話しを彼はしなくなりましたね。

12月には第一子が産まれ、初めてのクリスマスイブの日でした。その日に限って彼の帰りが遅いのです。残業せずに帰るはずだったので心配していました。
すると料理が冷めた頃、彼は帰ってきました。そして、「上司に出生届を出したら、話しがあると言って。。。転勤だって。来年から彦根勤務。社宅があるので引越し。。。」

私は、彼について行くだけです。

引越しをしてみると社宅の近くには、スーパーはなく、週末になると食料品を一週間分まとめて買いに行くのでした。
大阪では経験しなかった雪国の生活、変化も少ない生活でしたが、彼がいて家庭がある温かい空間、それは私にとっては幸せな月日でした。

ヒット曲のように、あとは子犬と暖炉さえあれば、歌になり、絵になる風景でした。
彼の仕事は、どんどん忙しくなっているようで、休日の出勤も増えていました。

彼の体調も気になりましたが、私の身体に変調を覚え始めたのもこの頃で病院に行き診察を受けましたが、二人目がお腹にいましたので、出産後に検査するということで終わっていたのです。

都会で生まれ育った私にとって、田舎生活はどうなるか心配な面もありましたが、友達も出来始め、住めば都でした。彼は、庭を耕してキュウリ、ナスそしてスイカまで作りました。
梅を買ってきて、梅干作り。
広い庭は梅を天日乾しするには最高でした。

結婚式のときに仲人さんに、どんな家庭にしたいか質問されたとき「平凡でいいから、幸せな家庭をつくりたい」と答えたことを思いだしました。
専業主婦で育児に追われながら、彼を仕事に送り出す。平凡だったかもしれませんが、振り返ると理想の姿だったかもしれません。

二人目を出産後、病院に行き診察を受けると、紹介状を書くので京大病院に行くように言われました。何が起きているのか、私も彼も驚いた瞬間でした。
当時大学病院しかなかったCTなど、色々と精密検査を受けたあと、検査結果を預かり、彦根の病院で診察を受けました。結果は、私も聞いたことのない病名でした。
看護学校を卒業してから数年は経過していましたが、その病名について習った記憶がないのです。

難病に指定されている病気らしく、申請するようにすすめられて、障害者手帳の交付申請を行い四級になりました。医療費はいらない、わずかですが福祉手当がもらえたのでが、この病気がどうなるのか、解明ができていないらしく先生に聞いても明確な答えはありませんでした。

時期を同じくして、彼は京都に転勤となり二年半住み慣れた彦根から京都で暮らすことになりました。
転勤なので、賃貸マンションが借上げ社宅になったので、彼は私のために病院が近くにあるマンションを会社にお願いしていました。
会社も配慮して頂き、マンションの向かいが救急病院。半径300メートル以内に救急病院が三つ。その他皮膚科、耳鼻科、内科などの開業医が密集している地域に住むことが出来ました。
定期的に京大病院にも通院をしていました。

特効薬はないがリハビリが一番と聞き、京都市リハビリセンター、マンションの向かいの病院など家事と育児の生活から、リハビリ生活に一変しました。
彼が子供たちの弁当を作り、洗濯、掃除など私の体調に合わして、主婦(主夫)をしてくれたのです。

歩くのに支えが必要になった私には、いつも腕組みをしてくれて、ず~と恋愛状態だったと思います。
でも、長距離ドライブなどの帰りは、子供は寝ているので駐車場から部屋まで子供と荷物、そして私。何度も往復してくれました。
仕事と家事だけではなく、幼稚園や学校の行事や授業参観など彼は私を連れて行ってくれました。

彼の会社、ものすごく仕事の配慮をしてくれているようで、残業をしなくても良い仕事に担当が変わったりしていました。でも、彼の性格を知っている私は、仕事をバリバリできない環境の方がつらいのではないかと思っていました。
その後、京都市内の他事業所に転勤となりましたが、私のことを職場で話さなくなったようです。話すと上司から仕事を配慮されるのが嫌だったのに違いないと思います。

その代わり、毎日のように仕事を持ち帰り、日曜日は、ご飯を食べながらテレビ番組のサザエさんを見て、それが終わると誰もいない会社に行っていました。
お母さんから聞いた、彼は負けん気が強いから仕事に夢中だったかもしれない。
日曜日ぐらいは、ゆっくりとして、と思ったこともありましたが、彼の顔を見ると本来の顔に戻っていたのです。

この間も、私の病気の進行は止まりません。
針灸が良いと聞くとその医院に通ったりすると、休日の彼の自由な時間はなくなっていました。
時間だけではなく、教育費にかかるようになっていましたので金銭的な負担も大きかったです。
普通の家庭は、奥さんがパートにでも出て家計の足しにするのですが、彼一人の収入で全てを補うのには苦労しました。

彼は、この時に行政、政治の矛盾などを強く感じていました。
障害手帳を持っていましたが、障害年金を支給されなかったのです。
私の発病が、年金の任意加入の期間中だったからです。
結婚と同時に退職、出産、引越などバタバタ状態で、任意加入のことは忘れており、役所からの催促もなかったのです。

今では、年金問題で皆が関心あることですが、当時は忘れている人も多かったと思います。
その後、サラリーマンの妻は強制加入となりましたが、その空白期間である数年間での発病だったのです。発病の確定は、初診日なので障害年金を受給できませんでした。

やっと一昨年、特別立法によって特別障害給付金の支給がありました。障害年金より少ない月5万円です。
この金額も他の制度の改悪により負担増となり、焼け石に水状態でした。
私は、運良くこの特別障害給付金の支給対象となりましたが、年齢の足切きりなどで支給対象にならず困っている人が多いのです。

彼は、年金制度は抜本的に変えるべきといつも言っています。
しかし、特別立法一つ作るにも長い年月が経過したことを考えると、年金制度の抜本的な見直しはいつのことか分かりません。とにかく20歳を過ぎた人は自己防衛のつもりで、年金に加入するしかありません。

行政は、縦割りでお役所仕事です。病気が特定疾患なので医療費などは保健所。他のことは、区役所。
色々な助成があるのですが、役所の方からは一切言ってきません。相談に行くことが全てのスタートなのです。

支給を受けた特別障害給付金も役所からは、連絡がありませんでした。偶然見たテレビのニュースで特別立法が国会で可決したことを知ったのです。
私の予想では、困っている人を救済するこの特別障害給付金でさえ、知らずに申請忘れの方も少なくないのではないかと思います。

そして、毎年のように各種の更新手続き、高額のお金を出して診断書を提出しなければいけないのです。
彼はボヤキます。一度認定されたら、役所の担当者と医者が循環してくる仕組など、本来の行政にするべきではないのかと。。。責任者でてこい~!

ある日、福祉事務所の相談員の方から、市内に障害者用のプールがあるので行ってみてはどうかと、彼が聞いてきました。

私は彼に泳げないので行くのを断りました。でも彼は、見学だけでも行こうと半ば強引でした。
その頃、車いすを使い始めており、乗ることに抵抗感があり、車いすで外出することが嫌で気分が落ち込んでいたからです。

車いすに乗ることも、それを押す事も、ものすごく勇気がいるのです。まずは自分の目線が違い、周りからの目が気になります。
当時は、バリヤフリーの言葉もなく、どこに行っても段差だらけ。商店街の歩道がコンクリートからレンガになるとデコボコでの振動が身体に伝わり嫌でした。
スーパーに行くと陳列の位置が高く、商品を選ぶことが出来ませんでした。

彼も私も、物を見る目線が変わったことにより、今までに見えなかったものが見えるようになってきました。
彼はこの数年、講演することも多くなってきて、時々講演のネタとして、コップを例題に使うそうです。
コップを真上から見ると“丸く”見え、真横から見ると“四角”に見え、遠く離れてみると“点”にしか見えない。

きっと健常者では見えないものであっても、私の車いすを通して見えるようになっていたのではないでしょうか。
私は、彼の講演を一度も聴いていないのが残念です。

ある日、京都市左京区にある京都市障害者スポーツセンターのプール見学に行くことにしました。

ここで、彼の人生が変わる出会いがありました。
今まで眠っていた彼の遺伝子にスイッチが入った日だったかもしれない。

スポーツセンターの駐車場に車を止め、玄関を入ると広いロビーになっています。そこに、車いすのおばちゃんがおられました。私の母親ぐらいの年齢で、片半身不随のようでした。
そのおばちゃんが、私と彼を見るなり「こんにちわ」と大きな声で声をかけてくれました。

私より身体が動かないのに、そのおばちゃんは元気で、自分は何をしている(していたのだろうか)と色々と思いました。
彼も、健常者なのでもっと元気に、何かをしなければいけないと言っていました。センターの中を見学すると、体育館、プールなどで頑張っている姿、生きていると感じる姿に、私も彼も心を打たれました。

その後、彼の送り迎えで毎週日曜日は、プールに行くことにしました。
プールに行き始めると、障害者シンクロのお誘いがあり、シンクロメンバーに入りました。

早いもので、来年の5月11日(日)に開催される、障害者シンクロナイズドスイミング・フェスティバルも第17回にもなります。あれから17年も経ちました。

彼は、言います。「プールの中では、障害者も健常者も何も差はない。むしろ障害者の方が能力は上。障害者を受け入れるバリアフリー社会をつくる必要がある。。。」
「障害者の“害”の漢字は、社会に対して害があるような感じを受けます。“障がい者”にするべき」

彼は海育ちで、水泳は得意と思っていましたが、意外と苦手であることを知りました。
温水プールなのですが、入水する瞬間の冷たさが、駄目なようです。

彼は、プールに送り迎えだけではなく、障害者スポーツの審判や雑用などをはじめました。
無理をせず、年に数日だけのボランティアですが、それを通じて社会に対して優しさが出てきたのではないかと思います。
そして、色々な人との出会い、社会的企業の実情などを知り、彼の遺伝子が動き始めました。

なぜ、遺伝子かと言うと彼の祖母(霊感の強い)が、保養地だった田舎に温泉を掘り、村の活性化のために旅館組合と温泉を掘っていました。温泉が出れば、その余ったお湯で老人たちが集まることの出来る施設の建設も進めていたそうです。
昭和20年後半から30年にかけて、戦後まだ女性の地位が低い時代に、社会のために活動する女性とは、「日本初の女性社会企業家」と彼は言っています。

霊感も含めた、おばあさんの血を引き継いだ彼には、社会企業家としての遺伝子があったと思います。私との出会い、障害者スポーツセンターがそのきっかけを作ったと思います。


彼の会社の人事制度が変わり、昇給は昇格しないと上がらなくなり、管理職(課長)に昇格は試験制度になりました。彼は、面接のQ&Aを作ったりしていましたが、きっと、私のために課長になりたいと思っていたに違いありません。結果は、合格して課長に昇格しました。
彼は転職の中途採用で、高校しか卒業していませんが、その彼を会社は評価してくれたことに嬉しく思い、その夜は彼と一緒にビールで乾杯しました。

それから半年経ったある日、帰宅した彼は私に爆弾発言「起業支援の制度ができたので応募する」詳しく聞くと、審査が通って会社を興すと退職しなければならない。。。
苦労の昇格(昇給)をしても一年も経たないのにと思いましたが、彼の性格を知っている私は何も言わず、反対もせず、夢を聞き入っていました。

人生は一度であることを、私から彼は知ったのではないかと思いますし、そんな彼の思いに反対したくなかったのです。

そして、他人とは違う目線で見ることのできる彼は、神様から大きな使命を与えられているのではないかと思い、彼の夢を叶えてあげたいと思ったのです。

彼は、私に夢を話してくれました。

「脱サラなどをする人は、会社が嫌で辞めて事業を起こす人が多いが、今の会社は嫌いではなく好き。でも、社会参加、社会に貢献などを考える人が少ないように思う。事業を行いながら社会貢献ができる企業にしたい。そして、成功事例になることで社内の意識を変えてみたい。。。」

勿論、不安はありました。家のローンの返済はありますし、子供は高校生で一番お金がかかる年代だったからです。

創業後、彼の生活は一変しました。

毎日のように仕事を持ち帰り、私が就寝しても仕事をしているのです。
彼が寝て熟睡した頃に私のトイレで彼を起こしてしまうことも頻繁でした。
トイレ介助などで、ヘルパーさんに来て頂いていましたが、夜間はヘルパーさんの体制が作れず、全て彼が見てくれました。

彼の睡眠時間は、仕事と介助でナポレオンと同じような状態でした。それでも、朝の朝食作りから洗濯、掃除など休むことはありませんでした。彼にとって休日はなく、365日全てが全力疾走状態でした。

訪問看護の看護婦さん、往診の先生は、私のこと以上に彼のことを気にしていました。
先生などから、ドクターストップ(体調注意)が彼に告げられても、彼は走ることを止めようとしませんでした。
なんとか、月に数日間だけ施設は入ることができ、彼に睡眠の機会を与えることができました。
しかし、後で聞くと交流会や飲み会をその日に合わして、毎晩遅い日が続いていたようでした。

ロウソクが燃え、残された時間がわずかのように、まるで短距離走を走るように頑張る彼でしたが、会社の状況などは、あまり話さないのです。

しかし、私にはわかりました。従業員の問題や赤字など、口に出さなくても、苦労は並大抵のことではなかったと思います。

そんな時、更に苦労をかけることを私は彼に言ってしまいました。

「殺して!」 

仕事だけでも大変なのに、私の介助、家事などを文句一つ言わずにやってくれる彼を見ているのが辛かったので、思わず言ってしまいました。

その言葉に彼は動揺して、私もどんな言葉が返ってきたか覚えていませんが、彼も頑張っているから私も頑張れ。。。だったと思います。
その時、ハッキリと覚えているのが、彼の目には大きな涙がありました。

その頃から、彼のところに神様がやってきたと思います。カンボジアに学校建設や文房具寄贈活動などがきっかけとなり、ビジネスも風向きが変わったのが、彼から伝わってきました。

そして、新聞に掲載、テレビ、ラジオなどに出演する彼の姿を見ると、私も頑張る勇気が出てきました。
人からも彼のことを「社会企業家(社会起業家)」と呼ぶ人が出てきました。
偶然、大手企業の不祥事などがキッカケとなり、CSR(企業の社会的責任)が叫ばれる時代になっていたのです。

カスタ君の町家として、町家を借りて無料開放することも普通の人では考えもしないことを彼は、あっさりとやってしまうのでした。

やはり彼には、おばあさん→お母さん→彼に引き継がれた、社会企業家の遺伝子。それも、そんな時代の到来を霊感のように予想したことは、偶然とは思えません。

彼は、社会企業家の必要性、創業から現在までの想いを本にしようとしていました。
私には、出版までお楽しみと言って、一切原稿を見せてくれませんでした。

どんな本になるのか今から楽しみです。

本の出版までに、彼のもう一つの夢だった京都らして形のクッキーが出来て、私に一番に見せてくれました。彼の想いがつまったクッキーなので、大ヒットすると思っています。

仕事を頑張っている彼に、ず~とYシャツにアイロンをかけてきました。男として、経営者としての身だしなみと思ってやっていましたが、それも出来なくなりました。
彼に私は何も出来ないのに、彼の優しさは、あの名古屋での出会いから変わることはありませんでした。

そして、愛する彼と別れの日がやってきました。
神様が私に、帰ってきなさいと言ってきたのです

彼はいつもの日と同じく、私をベッドに寝かせてくれましたが、翌朝、永遠に目を開けることが出来なくなりました。

最後の別れの時には、出版予定の原稿とクッキー、それも彼の名前が書いてある台紙でプレゼントしてくれました。
原稿は、ゆっくりと読ませて頂きますね。


彼は私に、何度も何度も『ありがとう』『ありがとう』と大粒の涙を流しながら言ってくれました。
そして、『また、会おう!』と。 

こちらこそ、ありがとう。。。さようなら。


追伸。

あと三ヶ月で銀婚式でしたね。

結婚指輪ですが、その3月7日には外して下さい。
指が太くなり、結婚指輪は切らないと外せなくなり、夏は痒いと言いながらも彼は指輪を外そうとしなかったです。25年間ありがとう。



あとがき
2007年12月4日未明、多臓器機能不全により、妻、恵子が他界しました。享年48歳。
葬儀には、お忙しいところ多数の方々にお見送りをして頂き、本人も喜んでいると思います。
本人になりかわり、御礼申し上げます。

この原稿を書くべきか悩んだのですが、二人で歩んだ25年。
そして、多くの方々からのご支援を頂けたことにより、ここまで頑張れたと思います。
25年間のほんの一部ですが、そのことを忘れないために書き、公開することを決めました。

花ちゃんと言われたように、私の心の中でいつまでも花が咲いていると思いますし、彼女の知人の方々にも美しい花が咲くものと確信しています。

彼女から教えてもらった社会企業家。
今後大きなものにすることが、残された私の使命かもしれません。
今後とも皆様のご支援の程、宜しくお願い申し上げます。


Written by 植木 力株式会社カスタネット 代表取締役)