(株)カスタネット、植木です。

第100回原稿取材のために旅に出ていましたが、無事に帰ってきました。
現在、原稿を書いていますが、先に第101回を公開します。

当社が行っているカンボジアへ学校建設、文房具寄贈活動は、財団法人 国際開発救援財団(FIDR)のご支援を頂きながら行っております。
人員も体制もないベンチャー企業が異国の地のカンボジアに支援活動が出来るのはこの財団のお陰です。
企業の社会的責任(CSR)の重要度が増している現在、信頼おけるNGOをパートナーとして活動する方が効率も良く、理想の姿と言われ始めています。
偶然にもその流れに、当社が乗っていると言っても過言ではないと思います。

今回、FIDRから冊子(報告書)が届きました。



当社が行っている学校建設や文房具寄贈はハード面であり、それ以上に必要で大変なのは、教育レベルの向上=先生のレベルアップであるソフト面を、FIDRは永年活動されています。
今回の報告書は、8人の先生のインタビューが掲載されていました。
冊子を夜中に一気に読ましていただきました。そして、カンボジアの状況、国際開発救援財団(FIDR)のご苦労の一旦を多く方に紹介したいと思い、電子データを頂くことにしました。

長文ですが、是非お読み下さい。そして、多くの方に転送(紹介)をお願いしたいと思います。

尚、紹介されているソフト面の活動について、残念ながら当社は行っておりません。
国際開発救援財団(FIDR)への支援(寄付)などについてのお問い合わせは、直接お願い致します。

では、原文のまま掲載いたしますので、最後までお読みください。


▼はじめに

カンボジアの公教育は、約30年間にわたる戦乱、とりわけポルポト政権の間に大きく荒廃したが、復興・開発の中で、村に新しい校舎が建てられ、父兄も子どもたちを学校に通わせるようになるなど、教育機会を得る子どもが増えている。しかし、依然として基礎教育の質は乏しく、校舎などインフラの不足だけでなく、学校の中で行なわれている活動の質に対する関心が次第に高まってきている。

財団法人 国際開発救援財団(FIDR)は、2001年よりコンポンチュナン州の2つの郡、コンポントララックとロレイアッピア郡、における46校を対象に初等教育サービスの質の向上を支援してきた。

学校において、日頃、子どもたちと最も近い場所で、最も影響を与える存在として接している先生たち。子どもたちによりよい教育を届けるためには、『先生たちの意識・行動が変わること』が不可欠であると、FIDRは活動を展開してきた。

ここに登場する8人は、その活動に参加した先生たちである。
彼らはどのような背景をもって教員になったのか、日常の業務の中でどのような問題をかかえているのか。さらに、FIDRの支援を通じてどのような変容がもたらされたのか、ここに一部紹介したい。彼らの話を通して、カンボジアの学校の様子や先生についてよりよく知る機会となれば幸いである。

最後に、5年間の活動を終えるにあたり、よりよい学校づくりのために、共に歩んできた先生たちに感謝するとともに、引き続き、地域の学校、そして子どもたちのために尽力していく先生たちに大きな期待を寄せたい。

2006年3月
(財)国際開発救援財団


▼ロット・ブントゥン教諭

ロレイアッピア郡 チュレイバッククラスター  アライン小学校 
ロット・ブントゥン教諭(36)

「私が教職に就いたのは1989年、コンポンチャム州でです。昔から先生になることにあこがれていたので、校長先生から誘いを受けた時はうれしかったです。当時、私は19歳。中学校2を卒業したばかりでした。教員になるための試験も教員養成課程を修了することなく教壇に立ちました。いちおう校長先生が参考のためにと、いくつかの資料を渡してくれましたが・・・。」

当時ロット・ブントゥンさんが住んでいたのは、まだクメールルージュ軍の兵士が多く残り、情勢不安が続く、人里離れたところだった。村の学校では、校長先生がある程度の教育を受けているものはみな教員として雇い入れ、教員不足を補おうとしていた時代だった。彼の学校でも約半数は教員としての資格を持っておらず、彼自身もその一人だった。「受け持つことになった5年生の中には、自分よりも年上で体格のよい児童もいました。そんな中、自分には、教員としての能力や自信はありませんでしたが、どうにか教え続けました。それでも児童たちはそんな自分に一度も不満をもらしませんでした。あの頃の子どもたちは礼節や規律というものを知っていましたから。」

教壇に立ち続けて4年が過ぎた頃、彼は校長先生からその資質を認められ、契約教員から政府雇用の正規の教員になることを勧められた。そこで、彼は初めて政府による教員研修を受けた。が、ようやく与えられたその機会さえも、たった3ヶ月の短いものだった。「初めて教壇に立った日からどんなに長い年月が経っても、私は自分の教員としての能力・技術に限界を感じていました。ちゃんとした教員養成研修を受けたことがありませんでしたから。よりよくしたい、なりたいという気持ちはあっても、どうしていいのか自分自身ではわかりませんでした。」

FIDRのプロジェクトが開始されて以来、この地域の教員たちを対象に様々な研修やワークショップが行われたが、彼はそれらを一度も休むことはなく足を運んだ一人だった。これらの活動を通じて彼は、教員としての技術や知識を習得し、なにより自信がついたと胸を張る。

2004年、ロット・ブントゥンさんは、チュレイバッククラスターの教員たちによって、6年生の学年担当3に選ばれた。みなが協力しあって物事に取り組めるようグループを率先していくのが得意な彼は、長い間6年生の授業を担当してきたその経験と、様々な活動におけるリーダシップ能力が認められたのだと思う、と語る。

「最近、自分は本当に幸せ者だと感じています。毎日学校に行って、子どもたちに教えるのが楽しくて仕方がないです。」
こどもたちにはよりよい教育を受けて欲しいと感じている。そのためにも、これからも自分の能力を伸ばし、それを他の教員や次代を担う若者たちと共有するのが彼の夢となっている。

1.カンボジア教育省は学校クラスター制度を導入している。近隣の6~8校を一つの学校クラスター(学校区)としてまとめ、その中で教材や施設、人員を共有・交換することで、学校における教育の質を改善することを目指している。

2.当時の教育制度は、5-3-3年制で、ロット・ブントゥンさんは中学校までの8年間の教育を終了している。

3.学校クラスターには、学年ごとの担当者がいる。彼らは教員の中から選ばれ、同じ学年を担当している教員のリーダーとして、特に技術面において指導・助言をする役割を担う。 


▼ペッ・サリー教諭

コンポントララック郡 セブクラスター ワット・トゥメイ小学校
ペッ・サリー教諭(26)

ペッ・サリー先生の教室では、かつては先生である彼の声ばかりが響いている授業が行われていた。子どもたちはきちんと姿勢を正して座り、黙って先生の言うことを聞いていた。プロジェクトを通じて、研修機会を得たことで、ペッ・サリー先生は、どうしたら子どもたちが、もっと関心をもって学べるようになるかを考えるようになった。

「授業では、まず、『コンポンチュナン州と接しているのは、どの州ですか?』と子どもたちに尋ねます。それから、『じゃあ、コンポンチュン州にはいろいろな国から来ている人がいますね。彼らはどこから来た人たちですか?』『コンポンチュナン州の特産品といえば、なんですか?』と続けて問いかけていきます。私は研修を通じて、このような発問の仕方はこどもたちの考える力を養うと学びました。」
これまでも教科書の指導書にある「コンポンチュナン州と接しているのは、どの州ですか?」という質問を授業で使ってきたとペッ・サリー先生は言う。ただ今ではさらにその質問と関連している事柄や子どもたちの身近な例を取り入れた質問を自分で考え、投げかけるようになった。「以前は、私はそこに教育的意味合いを考えることなく、ただ発問していました。でも、今は、“どんな質問をしたら子どもたちが故郷コンポンチュナン州の特徴について考えるようになるだろうか”と考えて質問を投げかけています。」

ペッ・サリー先生は、自分の教え方が変わったことが子どもたちにも影響を及ぼしているのを感じるという。例えば、授業の中でのグループ学習。かつては、グループごとに課題を与えた場合、8人の中で2人くらいの子どもだけがその課題に取り組んでいて、残りの子どもたちはそれをただ眺めているだけだったという。でも、今は一人ひとりの子どもが参加するようになった。「課題は、すべての子どもに分かるように伝えます。また、作業に必要な教材は、それぞれのこどもたちが参加できるように十分な数を準備することも心がけています。」
彼は、以前に自分のクラスで、1日あたり10人程度の子どもが欠席する状況を経験している。でも、今は毎日、ほぼ全員が学校に来るようになったという。さらに、2001年に55%だった進級率は、昨年には85%に上がっている。
同僚との関係にも変化があらわれた。プロジェクトに参加する前、彼は周囲の教員たち、とりわけ年上のベテラン教員たちと接することはほとんどなく、一人で仕事を進めていくことが多かった。しかし、そんな状態もクラスターの中で行なわれたクラスデモンストレーションという研修活動を通じて変わっていった。一人の先生の模擬授業を他の教員たちが観察して、その後、気がついた点を指摘したり、意見交換をしたりすることでより良い授業のあり方を学ぶこの活動は、ペッ先生にとってはとても興味深い一方で、勇気のいる時間でもあった。自分はまだ若く、経験も浅いと感じていた彼は、年上の同僚たちがいる中でコメントをすることに引け目を感じていた。そのため彼は、最初の何回かは発言することもできず、他の教員たちの発言を黙って聞いていた。しかし、ある日、彼は勇気を奮い起こして、自分の意見を皆の前で発表してみた。「自分の言うことになど、誰も耳を傾けてくれないだろうと思っていました。でも、一人の先生が自分の言ったことに反応してくれたのです。『私もそう思う』って。それからは、人前で意見を述べることが怖くなくなりました。意見や経験を色々な人と交換し合えるという意味で、今では他の先生たちと一緒に物事に取り組むことのメリットも強く感じています」とペッ・サリー先生は言う。

彼のクラスの子どもたちには、もうひとつ大きな変化が見られるようになったという。「今では子どもたちが自分の夢を語れるようになりました。以前は『将来は何になりたい?』という質問には答えられずにいる子が多かったのに。」

今後ペッ・サリー先生は、同僚の教員たちや父兄たちともよりより関係を作っていこうと思っている。子どもたちがよりよい教育を受けるためには、大人が協力していくことが不可欠だからだ。「教育には、子どもたちの夢を実現させる力がある」と彼は固く信じている。


▼ソム・ソカー教諭

ロレイアッピア郡 スメットクラスター キリ・ソヴァンヴォン小学校
副校長 ソム・ソカー教諭(48)

FIDRが実施した研修活動には、対象地コンポンチュナン州の中でも最も優秀な教師の一人であるソム・ソカー先生も参加していた。彼女は、1997年に州を代表するモデル教師に選ばれた上、教育省が教員養成トレーニング用に作成したビデオの中にも模範として登場したベテラン教師である。また、1998年からはスメットクラスターの教員全員に対しての研修を担当している。

プロジェクトを通じて行われた研修活動は、ソム・ソカー先生のように経験豊かな教員にとっても様々な発見をもたらすことになった。「昔は、授業の目的を自分でもよく理解しないまま教壇に立っていたこともありました。当時は他に頼れる参考資料も無かったために、自分の経験や自分なりの解釈をもとに授業を行うしかありませんでした。それに、教材や授業案など、授業の準備も十分ではなかったと思います」。

プロジェクトを通じ、ソム・ソカー先生はそれまで感じていた自分の教える技術の限界を打ち破り、受講している教員たちにとってより分かりやすい研修を行なえるように様々な努力をするようになった。研修を実施する前には、他のトレーナーたち4と集まって、その回の研修の目的や内容について確認したり、教材を準備したりするなどして、当日に臨むようになった。「かつては教えたいことの50%から60%くらいしか伝えられていなかったと思います。それが、今では参加者にもっと理解してもらえる研修ができるようになりました」と自信を持って語る。

1997年に教育省が撮影したビデオに映る、授業をしている自分の姿について聞かれると、ソム・ソカー先生は「子どもたちにたくさんの質問を投げかけたりして、とても活発な授業をしているように見えますね」と答えた。では、もし現在の自分を撮影したらどのように映ると思いますか?と尋ねると、「教師として、私は以前ほど授業を引っ張っていないように見えるのではないかと思います。その分、子どもたちが主体となった学習活動が増えているはずです」と言った。

彼女がトレーナーとなり実施している研修に参加しているアオ・ソパル先生とドム・ヴァニー先生は、「ソム・ソカー先生はよく準備をした上で研修に臨むし、参加者主体の授業の進め方をよく心得ています」と彼女の指導法の変化を評価している。もし研修内容を理解できない人が一人でもいたら、全員が分かるまで辛抱強く教えるのがソム・ソカー先生のやり方だ。ソム・ソカー先生自身が自分の教えたいことをしっかり理解しているからこそ、彼女のメッセージが的確に参加者に伝わるのだろう。

4.プロジェクトでは、クラスターごとに教員研修を担当するトレーナーが配置された。


▼ミエン・カメラ教諭

コンポントララック郡 セブクラスター スライサー小学校
ミエン・カメラ教諭(27)

ミエン・カメラ先生は、子どもの頃はたくさんの夢を持った少年だった。幼い頃は画家になりたかった。高校を卒業する頃には、農業について学びたいと思った。しかし、農業はプノンペンでしか学べないと知った彼は、「自分の家族の経済状況では無理だ」とあきらめ、地元で父親と同じく教員になることを決心した。

彼が赴任した2番目の小学校は、校舎建設の途中で、まだ教室が出来上がっていない学校だった。校舎が出来上がるまでの間、彼と子どもたちは木の下で授業を行なっていた。そこにはクラスター委員会から支給されたペンとチョーク以外には何も無く、頼れるものは以前教えていた学校から持ってきた指導書だけだった。

プロジェクトを通じて、ミエン・カメラ先生は教員トレーニングや教材作成ワークショップ、クラスデモンストレーション5、他の学校へのスタディツアーなど、様々な活動に参加した。教員になって以来初めての研修を受けたミエン・カメラ先
は「教員も勉強を続けなくてはいけないと思います。私もどんどん新しいことを学びたいです」と言う。

プロジェクトによる研修を受け始めてから彼が最初に行なったことは、子どもたちの座席の配置を変えることだった。カンボジアでは、先生が教室の前に立ち、子どもたちは、みなが前を向いて座るというのが一般的だが、ミエン・カメラ先生のクラスでは机を向かい合わせにして、いくつかのグループをつくり、こどもたちがお互いに向かい合って座り、アイデアを交換しやすくしている。「私のクラスでは、成績のよい子とそうでない子が隣り合って座っています。そうすることで、子どもたちがお互いに学びあったり、助け合ったりできるのです。」
また、教室の角のスペースに子どもの学習成果物を掲示することも始めた。子どもたちがドミノゲームをしながら学べるような教材も作った。
ミエン・カメラ先生の教え方も変わってきた。「“もし雨が降らなかったら、湖はどうなってしまいますか?”というような質問は、子どもたちがものごとの原因を追究する力を養います。また、“湖の水を溜めておくにはどうしますか?”という質問は、子どもたちの想像力を養います。自分の質問を通して子どもたちの考える力を伸ばすができることがわかりました。」また、簡単な言葉を意識して選ぶようになったり、授業内容に合う教材を使用したりするようになったことも彼は変化として挙げた。

楽しく効果的な学習環境を作ろうという彼の努力によって、授業中には子どもたちの声がよく聞こえるようになった。2年前はとても静かだった子どもたちが、今ではもっと積極的に反応や質問を投げかけてくるようになった。「子どもたちの活発な様子を見ていると、もっともっとがんばろうとやる気が湧いてきます。将来は、子どもたちが村の集会で自分たちの考えを発表できるようになって欲しいと思います。」

ミエン・カメラ先生は、彼が受け持つ児童たちだけでなく、他の学校の先生にも影響を与えた。以前、友達の一人がミエン・カメラ先生の学校を訪れたことがあった。この友達は、近くの学校で教える先生だったが、彼の学校はプロジェクトの対象校ではなかった。ミエン・カメラ先生の教室をのぞいた友達は、彼に「これは何だ?」「これはどうやって作ったんだ?」と次々に質問し始めた。そこでミエン・カメラ先生は掲示物などがたくさんある教室と自分が作った教材を友達に見せ、その作り方を教えた。また、その時には「先生が作ることのできる教材もあるけれど、子どもたちと一緒に作成できる教材もあるんだ」という秘訣も教えるのを忘れなかった。

2006年に行なったスタディツアーでは、ミエン・カメラ先生の学校はロレイアッピア郡からたくさんの先生の訪問を受け入れた。そのときにロレイアッピア郡教育局の副局長は「スライサー小学校は、たとえ国道から遠く、地の利が悪い場所にある学校でもすばらしく変われるということを証明しました。周辺の学校の先生たちにもぜひ見に来てもらおうと思います」と語った。


▼イー・チョイ教諭

ロレイアッピア郡 チュレイバッククラスター トゥール・クサッ小学校 
イー・チョイ教諭(32)

イー・チョイ先生が教師になることを決意したのは彼が9年生の時だった。2年間の教員養成課程を終了した後、彼はトゥール・クサッ小学校に着任し、以来今日まで教鞭を振るっている。初めに受け持ったのは、2年生のクラスで、それから10年ほど、ずっと2年生を教えていた。
「より上の学年を受け持とうにも、当時は自分の教員としての能力に自信を持てないでいました。自分が生徒の時に学校で何を習ったのか、それさえはっきりと思い出すことができませんでした。思い出せたとしても、最近の学習内容は私が子どもだったころよりもずっと難しくなっているため、大して助けにならなかったのです」。彼は授業案を作成したり教材を使用したりせず、「単に教科書を読み上げるだけ」の授業を行っていたと振り返る。

プロジェクトの研修活動を通じてイー・チョイ先生は、授業に際してどのような準備をしたら良いのかを学んだ。例えば、授業の前に授業案を準備して、自分が何を教える予定なのか整理したり、よりわかりやすい授業にするために教材を準備したりするようになった。教材は、彼自身が作成したものを使用することもある。イー・チョイ先生の授業方法の変化に、彼の勤務する学校の校長先生は「イー・チョイ先生は地域の優良教員として推薦されるかもしれない」と期待している。

以前は高学年を教えることを躊躇していたイー・チョイ先生が、彼自身の努力と経験を通じて自信を勝ち取り、最近では堂々と5年生を教えるようになった。そんな彼が抱く夢は「いつか中学校で教えること」だ。そのためにはさらなる教員養成課程を経なくてはならない ため、経済的に楽ではないだろうと感じつつ、イー・チョイ先生は「それでも挑戦してみたい」と語った。

6.小学校教諭が中学校教諭になるためには、さらに2年の教員養成課程が必要となる。


▼チョー・サンリィ教諭

ロレイアッピア郡 プレアティエットクラスター 
クラスター委員会長/プレアティエット小学校校長  
チョー・サンリィ教諭(46)

チョー・サンリィ先生は、プレアティエット小学校の校長先生であり、同時に郡の中で唯一の女性クラスター委員長である。彼女は「心から嬉しいかというと、そういうわけではありません。やらなくてはならない仕事があまりに多すぎて…」と率直に語る。

チョー・サンリィ先生は教育に20年以上も携わっているベテラン教員である。
彼女が学校で教え始めたきっかけは、それが彼女の夢だったからではない。彼女が先生になった1980年頃には、政府が国の再建のために必要な人材の不足を解消するために、ある程度の教育を受けた人であれば積極的に教員に採用していたという背景があった。「他になりたいものがなかったとはいえ、教員の仕事は私にとって魅力のあるものではありませんでした。それでも私が教員になったのは、当時先生をしていた友達が一緒に働こうと誘ってくれたからです。それに、私には、残された母と4人の妹の面倒をみるという責任がありました。妹たちを学校に行かせるためにも、私は働かなくてはならなかったのです」。

2004年、チョー・サンリィ先生はコンポンチャム州へのスタディツアー7に選ばれて参加した一人だった。彼女には、視察した学校で自分が見聞きしたことをクラスターの他の先生たちに伝えるという重要な役目があった。しかし、それを伝えようにも、言葉だけでは先生たちに「一人一人が現状を変えることができる」ということを理解してもらうことは難しいと感じた。そこで彼女は思いついた。言葉で伝えるのが難しいならば、実際に見てもらえばいいのだ、と。

その考えを実現するために、チョー・サンリィ先生がまず行なったことは「スタディツアーが学校にとっていかに有意義な活動か」ということを地域の人々に説明することだった。その結果、説得に成功し、政府からの学校予算8と、地域住民が学校の施設整備費として積み立ててきたお金の一部を使う承認を得た。

彼女が訪問先に選んだ学校は、スメットクラスターにあるトレア小学校だった。以前、トレア小学校の校長先生が、郡教育局やプロジェクト対象地のクラスター委員会が集まる月例ミーティングで「トレア小学校では順調に成果を上げている」と報告していたのを覚えていたからだ。

彼女の試みは成功した。トレア小学校訪問から帰った先生たちの変化は目覚しく、各々が自発的に教材を作り始めたり、教室の掲示物を工夫し始めたりした。わざわざ彼女のところにやってきて、「今まであなたが説明しようとしていたことがよくわかった」と言ってくれた先生もいた。チョー・サンリィ先生は、「皆が感謝してくれたのが嬉しかった」と振り返る。

校長先生とクラスター委員長を兼任している彼女は、仕事をこなしていくことがだんだん難しくなっていると感じることがある。「半日しか教えていない先生たち9に比べて、私が学校にいなくてはならない時間は長くなります。しかし私には、年老いた母や家のことなど、他にも面倒を見なくてはならないことがあるのです。」

彼女は付け加えた。「私はどちらかというと、人の話を聞く方が好きな人間です。他の校長先生のように、人前で話をしたり、説得力のあるスピーチをしたりして他の先生たちを引っ張っていくことも得意ではありません。先生たちが積極的に活動に参加してくれる時は嬉しいのですが、そうでない場合は“自分がリーダーに向いていないと思われているのでは?”と不安になることもあります。先生たちの中には、頻繁に監督し、注意を促さないと怠ける人もいます。そういう人を見ていると、この人たちをどうやって変えたらいいのか、分からなくて不安になるのです。人に何かを強要するのもあまり好きではありません。でも、これからも気持ちを凛ともち、先生たちの後押しをしていきたいと思います。それが校長としての私の役目ですから」。

7.当プロジェクトで実施した活動の一つ。他の地域の学校を訪問し、直接に活動を視察したり、先生から話を聞いたりすることを通じて、自分の学校活動の改善のためのアイディアを得ることを目的とした。

8.カンボジア教育省は「優先行動プログラム(Priority Action Program: PAP)」という教育政策を導入しており、これを通じて各学校に対して予算が割り当てられている。

9.地方では授業が2部制で行なわれている学校が多く、クラスを受け持って授業を行なう先生の多くは半日だけの業務となる。


▼ソ・ソティア郡教育局職員

コンポントララック郡
郡教育局トレーナー10 ソ・ソティア氏(49)

プロジェクトの最終年度である2005年度、コンポントララック郡教育局は「教材の作成法・活用法」の教員研修を実施した。それまでも郡教育局職員がトレーナーとなって、教員に対して研修を行なってきたが、それは週1回の教員研修日を利用したもので、1つの内容を1日での長さで教えるものだった。郡教育局のトレーナーたちが自分たちだけで5日間という長い期間の研修を計画・実施するのは初めてであった。

「できるだけ、先生たちの実践に役立つ研修にしたかった。」ソ・ソティアさんは、この研修の準備、特に使用するテキスト作成の過程で重要な役割を担った一人である。郡の中ではベテラントレーナーの一人である彼女は、このプロジェクトの開始前にも、教育省による研修を受けた経験を持つ。「何度か研修に参加したけど、そこで十分に知識や技術を学べていたとはいえない気がします。時間も短かったし、回数も少なかったし。それに、研修に出向いたとしても、そこでは概要だけで、具体的な説明は受けないことが多かったです。資料は渡されるけれど、あとは自分で読んで勉強するようにと言われました。正直、そのときの私は配られた資料を読んでも理解できないこともありました。なので、その内容を今度は自分が先生たちに対して研修する時には、資料どおりに口移しで教えるに留まっていたように思います。」

プロジェクトを通じて研修を実施する経験を重ねた今、彼女はトレーナーとしての自分にさらに自信を感じているようだ。5日間にわたる「教材の活用・作成トレーニング」のためのテキストを書き上げるという作業も、彼女はそれほど難しく感じなかったという。情報収集はひとつの資料からだけでなく、いくつかの情報源を使って行なうよう、心がけた。過去に受講した研修で使った資料はもちろん、教育省から配布された教育冊子を使用したり、郡教育局の前にある幼稚園を訪問し、そこで日頃作ったり、遊んだりしているものからアイディアをひろったりした。そして、同僚たちと何度も話し合いを重ねた。彼女は「以前からこれらの情報源が身の回りに存在するのは知っていました。でも、それらをこのように活用したことはありませんでした」と語った。

ソ・ソティアさんは、2005年3月、州教育局が主催した「子ども中心の授業」についての研修に参加したときの経験を話してくれた。「研修の中で、“教員の行動ではなく、子どもの学習活動が中心となる授業案を書く”という課題が与えられました。私はこの作業を誰よりも早く終わらせたので、他の参加者の前で自分の作成したものを発表するように言われました。その後、他の人たちの授業案も出来上がりましたが、最終的に私のものが“州のモデル授業案”として選ばれました。
以前は研修に参加しても、他の参加者の言うことを聞いているだけでした。それが今は、躊躇することなく自分の意見を人前で発表したり、課題に取り組んだりすることができるようになりました。これが例え、州の先生たちの集まりでも、全国の先生が集まるような機会でも、私は変わらずにそれができると思います」と、彼女は自信をもって語った。

10.当プロジェクトでは、郡教育局の職員(トレーナー)がトレーニングや巡回指導などを通じて教員に対する指導を行ない、教員の知識の習得、指導技術において重要な役割を果たした。


▼ネン・サルーン郡教育局職員

コンポントララック郡
郡教育局トレーナー ネン・サルーン氏(49)

ネン・サルーンさんは、校長職に就いていた期間も含めると、15年近く学校教育に関わっている。しかし、彼自身は、内戦の影響で当時13年間の学校教育のうち11年までしか終えることができなかった。内戦が終わり、国が復興の時代を迎えた頃、ネン・サルーンさんは教員になるための試験を受け、合格した。そして、プノンペンで1年間の教員養成課程を経たのち、1982年に先生になった。

1996年、教育省は教育の質の向上を狙った新しいシステムを導入した。それは、郡の教員たちの授業活動を監督・助言することのできる人材を育成するというものだった。ネン・サルーンさんは、コンポントララック郡で選ばれた他の2名の先生と共にこの役割を任されることになり、そのために6ヶ月の集中研修を受けた。
研修から戻ったネン・サルーンさんたちは、子どもたちに直接教えるという立場から、学校や他の教員たちを監督し、アドバイスをするという仕事に移り、さらには、教員たちのために研修を行なったり、郡教育局の運営を補佐したりするという役目を与えられた。FIDRは、プロジェクトを通じて、ネン・サルーンさんのような立場の職員がそれぞれの任務と責任を達成できるよう支援をしてきた。

「プロジェクトを始める前と後では、私の業務そのものは変わっていません。しかし、私が行なう仕事の質は変わったと感じます。」例えば、ネン・サルーンさんをはじめ、郡教育局の担当者はそれまでも教員に対する研修は行なっていたが、プロジェクトからの支援によって、まずその頻度が増えた。
また、ネン・サルーンさんは、「その日教える研修内容を、他の研修で扱った内容に関連付けて説明できるようになりました」と言う。つまり、今回の研修の題材をより深く説明したり、他のものと比較して考えさせたりするために、前回の研修で学んだことに触れたりするのだ。ネン・サルーンさんは言う。「実は、この“関連付ける”という作業は、私たちトレーナーが参加者である教員たちに教えようとしていることそのものなのです。例えば、理科を教えている時でも、理科の教科書に書かれている内容だけに言及するのではなく、関連性があれば、数学や社会で学ぶ題材も取り入れながら教えるようにするのです」。最初はネン・サルーン先生のようなベテラン教員であっても、この概念を理解するのは難しかったという。しかし、一連の研修から学んだ教訓と、彼の経験から得た知見を組み合わせることで、今ではこの考え方を参加者である先生たちに分かりやすく説明できるようになり、彼自身もトレーニングの中でそれを実践できるようになった。

FIDRのプロジェクトでは、各年度の初めにその年にはどんな研修を実施するかが全てわかっていた11ので、それぞれの回の題材や研修内容を関連付けて説明することが容易であったという。ネン・サルーンさんは、通常の州教育局や教育省から連絡のくるトレーニングでは、郡教育局のレベルには「来週トレーニングがあるから、集まるように」と突然言われるなど、情報が単発的にしか伝わってこないため、このような柔軟性のある対応を適用するのは難しかった、と語った。

「プロジェクトが行った研修の内容も、先生たちにとって適切なものでした」とネン・サルーンさんは振り返る。「特に、研修を実施するにあたってプロジェクトが配布したトレーナー用の指導マニュアルは、質・量ともに充実したものでした。州教育局の研修に参加した時にもやはりいくつか資料をもらったのですが、それらの資料からは“その研修で得た知識をどう応用すればいいのか”“他の先生たちにどう伝えればいいのか”が分かりませんでした。それでも当時はその資料以外に情報源は無く、効果的な研修を行なうのに必要な情報を十分に集めることは大変でした。」

ネン・サルーンさんが過去に研修を実施してもうまくいかないと感じでいたのは、参加者たちが研修の目的や内容をなかなか理解してくれない、というだけではなく、彼と教員たちの関係が遠い、という点にもあったようだ。プロジェクトにおける様々な活動を通じて、今では彼は教員たちと緊密な関係を築くことができたし、セブクラスターの先生であれば、一人一人の性格や特徴も知っている。「先生たちが積極的に参加してくれたのは、研修の内容が彼らにとって興味深いものだったからだと思います。それに加えて、私の教え方が、トレーナー主導のものから参加者主体に変わったことも理由の一つではないでしょうか。私の経験では、参加者主体の方が彼らの積極的な参加を促すことができると感じます。その方が私にとっても簡単ですし。私が全てを仕切るのではなくて、ファシリテーターに徹すればよいのですから」。

ネン・サルーンさんは今後の抱負を次のように語った。「これからも先生たちと緊密な関係を築きながら、彼らの置かれている状況を監督・観察していくつもりです。そして、郡教育局が先生たちのニーズに合った研修の機会を設けていけるよう提案をしていきたいと思います。」

11.プロジェクト活動の計画は郡教育局、クラスター委員会のメンバーが主体となって策定し、関係者全員が合意をもって、実施していくプロセスを徹底した。


以上。
先生方の写真、研修風景などは割愛致しました。


Written by 植木 力株式会社カスタネット 代表取締役)